その記憶がまだ新しいところに、今日付けの新聞で「米軍に基地内居住義務」という見出しで、在沖米軍の基地外居住を原則的に認めない方針が打ち出されたことが報じられてあった。
家族持ちだけに限定したり(独身者には適用されない)、95パーセント以上の居住率を維持すれば基地外居住も認められるなど、例外はあるが当面は原則的に認めないという「ポーズ」が示されたことになる。
しかし、このポーズは結局のところ、あくまでも米国国防総省の「経費削減」の一環として打ち出されたものである以上、沖縄の生活文化に対する配慮からではないことは一目瞭然と言えよう。
沖縄の気持ちをくんでそうしているのではなく、あくまでも自分達の財布の紐を締めるためだけのことなのだということだ。
沖縄には軍隊があるがゆえに米兵向けの住居がたくさんある。
町まるごとが米兵タウンのような様相を呈しているところもある。
基地外、つまり沖縄に暮らす人々と同じ生活空間であるわけだから、さまざまな米兵がらみのトラブルや犯罪も日常的にある。
もちろん米兵が町にいることによって、文化的な面での「交雑」は行われており、一概にそうしたカルチャー面での変化を無意味と断ずるわけにはいかないだろうが、しかし何がもたらされ何が失われているのかを考えることもなく、商業主義的な肯定のみでそうした交雑を妥当視することには賛成しかねる。
意志の無いところに交流などは無い。
文化的交流といえば聞こえはいいかもしれないが、戦後たえず繰り返されてきたのは、「交流」というような相互関係的なプロセスではなく、否応なしに受け入れざるを得ない、つまり主体的意志や判断など無く犯されて続けてきた沖縄の生活の場が、変容を重ねながらもいまだにここかしこにあるのではないだろうか。
しかし、生まれてきた子どもは育てなければならない。
いうまでもないが、子育ては「損得」ではない。
誰が自分の生んだ子どもを、「自分にとって損があるから育てない」とか「得するから育てる」といった発想をするであろうか。
育てるということはそうした利益の有無とはまったく異なる次元でとらえるべきものだ。
損益分岐点や収支で子どもの成長を考えてしまうと、「なんでオレはこの子を育てなければならないのか」といった類の思考を促してしまう。
そうした傾向は現代社会においていたるところにみられるが、我が子を虐待する事件などはそのいい例であろう。
経済のみで世界のありようをとらえてしまうところには、子どもすら「決算」の対象とみなしてしまう落とし穴がある。
リソース(資源)として子どもをとらえているに等しく、コントロール(管理)対象としてみているに過ぎない。
子どもはコントロールするものではない。
手入れをするだけである。
水をやり、肥料をまき、声をかけて健やかに育つように心を傾けることだ。
どういう実をつけるのか、あるいはどのような花を咲かせるのかは、その時がくるまで誰にも分からない。
沖縄における米軍の存在と、個々の米兵との関わりから実にさまざまなものが産み落とされてきたが、この問題を考えるときに、これまでがどうであったのか、いまはどうなのか、そしてこれからはどういうふうにするのか、過去・現在・未来で私たち自身の意志の面からとらえなおすことが必要だと思う。
愚痴ばかりでも仕方が無いし、分析ばかりしていても詮無いし、誰かの陰謀として責任を請け負わないのもつまらない。
自らの意志の問題としてみるときに、ようやく子どもを育てるスタートラインにたつのではないだろうか。

